大正11年(1922)開業当時の建物を残すかわいい駅舎。 長野電鉄屋代線が廃線となったが、駅舎は残った。
江戸時代末期(元治元年=1864年)に、松代藩9代藩主 真田幸教が当初 義母お貞の方(貞松院)の住居として建築し、やがて隠居した幸教の住居となり、明治以降は、真田家の私宅となりました。昭和41年(1966年)には真田家伝来の宝物とともに、長野市に譲渡され、今に至ります。 敷地内には主屋(御殿)と表門、7棟の土蔵などの附属施設に加え、庭園が一体のものとして残されており、全国でも少ない御殿建築の遺構です。 松代城跡の建築物として唯一、当時のままに残った貴重な建物で、間取りなどに武家屋敷の面影を色濃く伝えています。小堀遠州の流れをくむと伝えられる池山回遊式の日本庭園が四季折々の彩りと風情を楽しませてくれます。
国指定史跡旧文武学校 概要 松代藩・八代藩主の真田幸貫は、文武の奨励を目的として、嘉永四年(1851)に松代藩の藩校である文武学校の建設準備にとりかかりました。九代藩主・幸教は、幸貫の遺志をついで学校建設に着手します。 建物は嘉永六年(1853)に完成しました。しかし、藩主の居宅である花の丸御殿の火事などにより、開校は安政二年(1855)まで遅れました。 文武学校の特徴は、他藩の藩校とは違い、儒教の教えを排除した点にあります。そのため校内には孔子廟がありません。また建築も簡素で、近代的な学校建築への過渡期のものといえます。 現在残る建物群は、開校当時の姿をほぼ伝えています。これは全国的にみてもまれです。 文武学校の授業 文武学校での授業は、文学(漢学)・躾方・医学・軍学といった文学のほかに西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸がありました。 武芸は、それぞれ弓術所・剣術所・槍術所・柔術所で学びました。また文学は、文学(漢学)を文学所で、軍学を東序、漢方医学・西洋医学を西序でそれぞれ学びました。武術はさまざまな流派があるため、流派ごとに教えていました。 西洋医学・西洋砲術などを科目に取り入れるなど、当時にあっていかに学問水準が高かったかがうかがえます。
●樋口家の歴史 旧樋口家は江戸時代、松代藩10万石を治めた真田家の家臣として、藩の目付役などを務め、江戸時代末期は禄高が、230石でした。 樋口家歴代の墓所は長国寺にあり、その歴史は、樋口家文言『樋口家譜略伝』(明治14年)によると、甲斐武田家の家臣であったと伝えられ、家紋は三つ鱗紋を用いていました。 樋口家が当初に住んでいた場所は不明ですが、樋口家文書から、江戸時代中期の明和2年(1765)、6代樋口角兵衛邦蕃の時に、現在地である殿町へ移り、近年まで続いていたことがわかります。 殿町は松代城のすぐ東南に位置し、城の正面口にあたる大御門(大手門)にも近く、上級武士が多く住む武家屋敷町でした。 中でも樋口家は、真田邸(新御殿)に隣接し、上級の武家屋敷町の中心的な位置にありました。 ●旧樋口家住宅の施設概要 江戸時代の樋口家住宅は、他の藩士たちの住宅と同様、一種の公舎でした。 敷地のほぼ中央には泉水路が東西に流れ、敷地の南側は、現在は雑木林と竹林、庭園ですが、樋口家の時代は畑として使用されていました。一方、北側には主屋を中心とした建物があり、 現在は主屋、土蔵、長屋、屋敷神の祠、表門、土塀、板塀がありますが、表門については、移築されてきたものといわれています。 このうち、主屋、土蔵、長屋の3棟が、長野市の文化財(建造物)に指定されており、中でも、主屋と土蔵は建築年代がわかります。 現在「NPO法人夢空間松代のまちと心を育てる会」が管理運営を行い、まち歩きの拠点のひとつとなっております。
旧松代藩士横田家は、禄高150石の中級武士で郡奉行などを努めた家である。最後の甚五左衛門は表御用人であった。 この住宅は他の藩士宅と同様、一種の公舎で、横田家が現在地に移った時期は十八世紀末である。 主屋は、寛政六年(一七九四年)表門は天保十三年(一八四二年)に建てられた。隠居屋は、文政三年(一八二〇年)頃移築されたものと推定される。 屋敷地は、間口約四十メートル(二十二間合)面積三三四〇、八二平方メートル (約千十二坪)道に面して表門、奥に主屋、主屋の東隣りの隠居屋、主屋南西に土蔵が建つ。この屋敷構えは江戸時代末期の様相を伝え、当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されている点で貴重である。 なお 横田家から出た秀雄は大審院長に、その子正俊は最高裁長官になり、二代続いて裁判官の最高の地位についた。 そのほか、秀雄の弟謙治郎(小松)は鉄道大臣となり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名で、多くの秀才を生んだ家である。 重要文化財 旧横田家住宅 主屋・表門・隠居屋・土蔵二棟 昭和六十一年一月二十二日指定 平成四年三月 長野県教育委員会
まち歩きを通じて松代を楽しみたい方々の情報センターとして、また、地元の人々との交流センターとして、活用されている施設。松代案内の本などもある。 休み/年末年始。(問合せ026-285-0070)
旧松代藩鐘楼(しょうろう)は真田信之が松代に入封(にゅうほう)直後に建てられたとされ、当初は火の見櫓(やぐら)の役割を兼ねていた。 昼夜の区別なく一刻(いっとき)(二時間)ごとに時刻を知らせたほか、城下で出火があった際にも鐘を撞いて非常を知らせていた。 その後三度の火災に見舞われ、現在の鐘楼は享和元年(1801)の再建にあたり、鐘楼と火の見櫓を別棟にして造営された。 また鐘は太平洋戦争で供出され、現在のものは平成三年に旧鐘の寸法や重さを模して取り付けられたものである。 この鐘楼で、江戸の末期に、佐久間象山が電信実験をしたという言い伝えが残されている。 構造は石積みの基壇(きだん)の上に立つ井楼(せいろう)式高櫓(たかやぐら)形鐘楼で、高さは約12メートル、屋根は切妻(きりづま)の瓦葺きである。 屋根まで伸びる四隅の柱を保護するため、支え柱を立て、下見板張りとしている。 内部は三層になっており、土間を除いて床は板張りとし、各階をはしごでつないでいる。 平成22年度から、保存修理工事を実施し、あわせて周辺を広場として平成26年3月まで整備した。 長野市指定有形文化財(建造物) 旧松代藩鐘楼 昭和42年12月20日指定 平成26年3月31日 長野県教育委員会
矢沢家は松代藩において、代々無役(むやく)席(筆頭家老格)を務め、江戸中期以後は石高1400石、預同心40人の藩中最高の家格であった。 寛政4年(1792)に再建されたこの長屋門は、間口13.19メートル、奥行3.72メートル、高さ6.83メートルで、屋根は入母屋造の瓦葺である。門の両側に武者窓を備えた同心部屋を配し、右の同心部屋の陣には「供待(ともまち)」という腰掛をそなえた開放の空間を備えている。鬼瓦や破風(はふ)に配された六連銭(むつれんせん)や、白漆喰(しっくい)の壁など城門を思わせる格式を持っている。 平成17年(2005)の火災により類焼被害を受けたが、約2年間の修理工事を経て甦った。 平成20年3月31日 長野市教育委員会 市指定有形文化財(建造物) 矢沢家の表門 長野市指定 昭和42年11月1日指定
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