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1.松代城跡(国指定史跡)

松代城(海津城)跡〔国史跡〕  松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。  海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄3年(1560)ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。  戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。  元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。  その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。

2.真田宝物館

旧松代藩主真田家から寄贈された家宝の武具、調度品、文書、美術品などを所蔵。重要文化財の「青江の大太刀」、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄らの書状など、大名家ならではの興味深い史料が多数展示されています。

3.旧樋口家住宅

●樋口家の歴史  旧樋口家は江戸時代、松代藩10万石を治めた真田家の家臣として、藩の目付役などを務め、江戸時代末期は禄高が、230石でした。  樋口家歴代の墓所は長国寺にあり、その歴史は、樋口家文言『樋口家譜略伝』(明治14年)によると、甲斐武田家の家臣であったと伝えられ、家紋は三つ鱗紋を用いていました。  樋口家が当初に住んでいた場所は不明ですが、樋口家文書から、江戸時代中期の明和2年(1765)、6代樋口角兵衛邦蕃の時に、現在地である殿町へ移り、近年まで続いていたことがわかります。  殿町は松代城のすぐ東南に位置し、城の正面口にあたる大御門(大手門)にも近く、上級武士が多く住む武家屋敷町でした。 中でも樋口家は、真田邸(新御殿)に隣接し、上級の武家屋敷町の中心的な位置にありました。 ●旧樋口家住宅の施設概要  江戸時代の樋口家住宅は、他の藩士たちの住宅と同様、一種の公舎でした。  敷地のほぼ中央には泉水路が東西に流れ、敷地の南側は、現在は雑木林と竹林、庭園ですが、樋口家の時代は畑として使用されていました。一方、北側には主屋を中心とした建物があり、 現在は主屋、土蔵、長屋、屋敷神の祠、表門、土塀、板塀がありますが、表門については、移築されてきたものといわれています。  このうち、主屋、土蔵、長屋の3棟が、長野市の文化財(建造物)に指定されており、中でも、主屋と土蔵は建築年代がわかります。 現在「NPO法人夢空間松代のまちと心を育てる会」が管理運営を行い、まち歩きの拠点のひとつとなっております。

4.松代藩文武学校

国指定史跡旧文武学校 概要  松代藩・八代藩主の真田幸貫は、文武の奨励を目的として、嘉永四年(1851)に松代藩の藩校である文武学校の建設準備にとりかかりました。九代藩主・幸教は、幸貫の遺志をついで学校建設に着手します。  建物は嘉永六年(1853)に完成しました。しかし、藩主の居宅である花の丸御殿の火事などにより、開校は安政二年(1855)まで遅れました。  文武学校の特徴は、他藩の藩校とは違い、儒教の教えを排除した点にあります。そのため校内には孔子廟がありません。また建築も簡素で、近代的な学校建築への過渡期のものといえます。  現在残る建物群は、開校当時の姿をほぼ伝えています。これは全国的にみてもまれです。 文武学校の授業 文武学校での授業は、文学(漢学)・躾方・医学・軍学といった文学のほかに西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸がありました。  武芸は、それぞれ弓術所・剣術所・槍術所・柔術所で学びました。また文学は、文学(漢学)を文学所で、軍学を東序、漢方医学・西洋医学を西序でそれぞれ学びました。武術はさまざまな流派があるため、流派ごとに教えていました。  西洋医学・西洋砲術などを科目に取り入れるなど、当時にあっていかに学問水準が高かったかがうかがえます。

5.象山神社

幕末の先覚者・佐久間象山をまつり、全国の教育関係者の尽力により昭和13年に創建されました。総桧材桃山式流造の雄大な本殿を中心に、象山が幕末の志士たちと国家の時勢を論じたという高義亭、京都から移築した茶室・煙雨亭、象山宅跡、生誕の碑、生誕200年を記念して建立されたブロンズ像などがあります。 御祭神 佐久間象山(さくまぞうざん)について  幕末の大先覚者である。  松代藩士佐久間一学の長男として文化八年(1811)に生まれる。  6才の時から父や鎌原桐山・活文禅師などから学問・武術を習い、20才で詩文・経書・武術等免許される程の秀才であった。  23才江戸佐藤一斉の塾に入門、渡辺華山・藤田東湖等と親交。  3年で帰藩し、藩の子弟に経書や漢学を教える。この頃名を修理、号を象山と改める。  29才江戸お玉ヶ池に象山書院を開き、多くの門弟を集める。 藩主幸貫老中で海防掛の時、海防八策を幕府に上申する。  36才帰藩し、湯田中・沓野・佐野(志賀高原)の利用係として開発に努力、又大砲・電信機等の製作・実演をする。  41才江戸木挽町に塾を開き、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰 橋本左内など維新の英才を輩出。ペリー来航国論沸騰の際、軍議役として横浜警備に当る。開国諭を唱え横浜開港を主張する。 松陰密航事件に連座して投獄される。  44才から9年間松代に蟄居される。この間高杉晋作・久坂玄端・山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳らが面会に訪れ、時世について、激論。象山の学識に感動して去る。  54才元治元年(1864)幕府の命で京都へ上る。将軍家茂・ 一橋慶喜・山階宮・中川宮に公武合体開国を説いて活躍中7月11日三条木屋町で尊攘派の凶刃にたおれ、尊皇開国の捨石となって非業の最後を遂げる。  その後4年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という 憂国の至情がそのまま具現されたのであった。  大正2年象山殉難50年祭を契栽に、元審院長横田秀雄博士 の主唱で、神社建立の計画が進められ、地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、昭和13年11月3日県社として創建された。 財団法人 佐久間象山先生 顕彰会 (象山神社内の看板より)

6.山寺常山(やまでらじょうざん)邸

 山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で幼名を久道(ひさみち)、のちに信龍(しんりゅう)と名のり、通称を源太夫(げんだいゆう)といいました。  常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎(さとういっさい)や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。八代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐しました。  明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。  現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬[たいちくろ])が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。  表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。  屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑(しょうとくひ)は、孫の塩野季彦(すえひこ)らが、長野城山に建つ碑文の磨耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。

7.象山地下壕

第2次世界大戦の末期、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省等を松代に移すという軍部の極秘計画のもとに構築した地下壕です。着工は昭和19年11月から翌年8月15日の終戦まで約9ヶ月の間に当時のお金で約2億円の巨費と延べ300万人の住民および朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、過酷な条件下で多くの犠牲者を出したと言われます。西条口(恵明寺口)から500mの区間が見学できるようになっています。 ★見学の方は次のことを守って入壕してください★ ※ヘルメットを用意してありますので、必ず着用してください。 ※壕内では飲食、喫煙、落書き、集会等、一般見学者の迷惑になるような行為はお断りします。 ※壕内でのつまづき、スリップには十分注意するとともに、結露による水滴にも注意してください。 ※ゴミの持ち帰り運動にご協力ください。※象山東駐車場(無料)をご利用ください。(駐車場から地下壕までは徒歩約8分です)。

8.大英寺

大英寺の歴史  皓月山大英寺は、松代藩初代の藩主真田信之が、その奥方であった小松姫(大連院殿)の菩提を弔うために建立した寺である。  小松姫は徳川家の重臣本多忠勝の娘であり、しかも徳川家康の養女となって嫁いだので、信之を助け大変立派な奥方だといわれたが、元和6年に小松姫が亡くなると信之は大変に落胆して嘆きもひとしおであった。  小松姫の戒名は大連院殿英誉皓月大禅定尼で、大英寺の名前もこれによる。  小松姫の亡くなったのは、信之びまだ上田城主の頃だったので、上田の常福寺(今の芳泉寺)に葬られて、お墓やお霊屋が建てられたが、元和8年、信之は松城(松代)へ転封になったので、松城に大連院殿の寺を移し、これが今の大英寺である。 上田に造ったお霊屋と鐘楼を運んで建てなおした。(このお霊屋が現在の本堂で県宝に指定されている。) その頃の大英寺にはお霊屋や鐘楼のほかに、諸堂が建立され大変立派だったと伝えられている。  完成した大英寺は、常福寺の誉霊大和尚にって開山された。  慶安2年には幕府より百石の御朱印を頂戴し、宝永7年に本堂と庫裏、衆寮などを建立した。享保十九年火災を起こして焼失し、寛保元年再建に着手し、同2年完成した。また天明5年お霊屋の大修理等、全て松代藩真田家によって行われた。  明治維新のあとは、真田家の援助も碩地もすペて無くなってしまったので、大きな寺の維持は困難になり、いくつかの堂を取り壊し、真田家にお願いして、お霊屋を本堂にし、残りの材で庫裏も造った。  大英寺は、江戸時代初期からの歴史が境内の所々にみられる、浄土宗の由緒ある寺である。 平成11年10月吉祥日 皓月山大英寺 第廿一世 皓譽法弘誌

9.まち歩きセンター

まち歩きを通じて松代を楽しみたい方々の情報センターとして、また、地元の人々との交流センターとして、活用されている施設。松代案内の本などもある。 休み/年末年始。(問合せ026-285-0070)