激突 川中島
1561 (永禄4)年9月10日(現在の暦では10月28日)、八幡原を中心とする川中島平の広い範囲で武田・上杉両軍による4回目の戦が行われた。
上杉軍は8月16日に13,000の本隊を率いて海津城を眼下に見ながらここ妻女山に着陣した。
一方、海津城を守る高坂弾正からの援軍要請をうけた武田軍は20,000の兵を率いて8月29日に海津城に入った。両軍とも過去3回にない多数の兵を動員し決戦の準備に臨んだ。
武田軍は山本勘助の進言により兵を二手に分け、主力である12,000の兵を夜中妻女山へ向かわせ、残り8,000の信玄の本隊が八幡原でこれを迎え撃つ作戦をとった。いわゆる「きつつき戦法」と呼ばれるものである。これを察知した上杉軍は夜中に山を下り、千曲川の雨の宮の渡しや犀川を渡って川中島平に出て夜明けを待った。この夜は霧が深く、夜明けとともに霧が晴れた瞬間、両軍がすぐ間近に遭遇することになった。上杉軍の予期せぬ「車がかりの戦法」に劣勢となった武田軍は苦戦し、信玄の弟信繁、諸角豊後守、山本勘助らが戦死した。その後、妻女山からの別働隊の参戦によって形勢は逆転し、上杉方も多くの戦死者を出し退却した。
直接対決を避けてきた信玄がこの戦いで多くの犠牲をはらいながらも上杉軍を押し返したことで川中島一帯は信玄の支配下となり、上杉を頼った村上義清、高梨政頼は信濃川中島への復帰の願いを断たれる結果となった。