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山寺常山(やまでらじょうざん)邸

 山寺家は松代藩で知行160石の中級武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、鎌原桐山(かんばらとうざん)、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で幼名を久道(ひさみち)、のちに信龍(しんりゅう)と名のり、通称を源太夫(げんだいゆう)といいました。
 常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎(さとういっさい)や中村敬宇(なかむらけいう)らと親交を深めました。八代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐しました。
 明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
 現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたと推定される書院(対竹廬[たいちくろ])が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
 表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
 屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑(しょうとくひ)は、孫の塩野季彦(すえひこ)らが、長野城山に建つ碑文の磨耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。