旧松代藩士横田家は、禄高150石の中級武士で郡奉行などを努めた家である。最後の甚五左衛門は表御用人であった。
この住宅は他の藩士宅と同様、一種の公舎で、横田家が現在地に移った時期は十八世紀末である。
主屋は、寛政六年(一七九四年)表門は天保十三年(一八四二年)に建てられた。隠居屋は、文政三年(一八二〇年)頃移築されたものと推定される。
屋敷地は、間口約四十メートル(二十二間合)面積三三四〇、八二平方メートル (約千十二坪)道に面して表門、奥に主屋、主屋の東隣りの隠居屋、主屋南西に土蔵が建つ。この屋敷構えは江戸時代末期の様相を伝え、当時の位置に屋敷地及び建物がほぼ完全に保存されている点で貴重である。
なお 横田家から出た秀雄は大審院長に、その子正俊は最高裁長官になり、二代続いて裁判官の最高の地位についた。
そのほか、秀雄の弟謙治郎(小松)は鉄道大臣となり、姉の和田英は「富岡日記」の著者として有名で、多くの秀才を生んだ家である。
重要文化財 旧横田家住宅
主屋・表門・隠居屋・土蔵二棟
昭和六十一年一月二十二日指定
平成四年三月
長野県教育委員会