墳丘は積石塚円墳でやや原形を変えており、横口式石室の羨道部を南方に開口している。
石室の大部分は破壊されているが、当地特有の屋根形天井のある合掌形である。
玄室の基部は平らな面を内に向けて、高さの同じ大石で四方を囲み、長方形の堅穴を設けている。
その基部上に長さ1.5メートル、幅1.7メートル~1メートルの平石三枚ずつを中央に傾けて立て石室中軸線の上方で組合わせて屋根形を造り羨道部も同様の構造となっている。
大きさは玄室部の長さ4.2メートル、幅1.4メートル高さ1.8メートル。羨道部の長さ2.7メートル、幅0.6メートル。
屋根形天井のある石室古墳は、善光寺平周辺に三十余基を数えるが、当古墳の石室は規模が最も大きく整っている。
成因については、百済の公州所在の古墳中に相似の構造を持つものがあるので、朝鮮との関係が考察され、造営は古墳時代後期の6世紀半ば頃のものと考えられている。
昭和62年3月
長野市教育委員会