竹山随護稲荷神社の由来
●この社はその昔、真田信親公(真田信之公・幸村公の弟昌親の子)が江戸(現在の東京)今井の屋敷内に鎮守として祭っていたものである。
●信親公には子がなく、2代松代藩主信政公の長子、信就公の六男信弘公が養子となるが、三代藩主幸道公にも子がなかったため、信弘公が幸道公の養子となり宗家を継ぎ、四代藩主となろ。
●真田十万石の宗家を相続することになった元禄16年(1703年)江戸屋敷内から海津城内に遷座し、鎮守として祭った。
●享保8年3月(1723年)ゆえあって幸道公の開基寺である恵明寺境内に遷座する。遷座建立された場所は、現在竹林昌となっていて、奥杜として祭られている所である。(狐の穴)
●八代藩主幸貫公の帰依篤く「正一位随護稲荷大明神」と称し、恵明寺が別当を司り、参詣人多く地方著名の社となる。
●しかるに、降って明治4年(1872年)維新改革の神仏分離令により別当引き離しとなり、神勤は中村神社神官に引渡しとなる。
●本殿が現在地に建立されたのは明治中頃とおもわれる。