富岡製糸場と関係が深い六工社(ろっこうしゃ)

六工社(ろっこうしゃ)案内

明治維新以来、松代地域の疲弊した経済の救済と繁栄を図ろうと、大里忠一郎等は同志数名と共に謀り(原文ママ)この地方に適した産業として当時輸出産業第一位の製糸業に着眼し、製糸揚の設置を計画した。そして国内唯一の官営富岡製糸場(群馬県)にならい、明治六年(一八七三年)二月民間蒸気製糸場の建設を始めた。
 横田数馬の助力を得、同志九名が資本金二千円を拠出、約千円を他より借入、銅製蒸気釜の考案など苦心しつつ繰糸場、釜場、水車、工女部屋、薪置場、用水池、帳場炊所、浴室等を備えた「六工社」をこの地(西条六工[ろっく])に創設した。社長に春山喜平次、副社長に大里忠一郎が就任し、工女五十人繰りの規模であった。
 明治六年三月、富岡製糸場へ伝習のため派遣された横田英他十五名が帰るのを待って、明治七年八月二五日に「大日本帝国民間蒸気器械の元祖六工社」(和田英・旧姓横田「富岡日記」)が創業を開始した。
 六工社は、わが国民間フランス式改良日本型蒸気製糸場の創始であり、「六工社生糸(きいと)」の名は国際的にも知れわたった。

松代史跡文化財開発委員会