高義亭(こうぎてい) 象山神社内

建造物 高義亭(こうぎてい)
長野市・指定文北財
昭和54年3月12日指定

 もと松代藩主家老望月主水貫恕の下屋敷にあった建物である。安政元年(1854)佐久間象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ望月氏の屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の2階の7畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
 下屋根も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
 一階は、玄関(2坪)・取り次ぎの間(6畳)・次の間(9畳)・客間(10畳)・茶の間(6畳)・勝手(4畳半)と、西に納谷を造り出す。玄関は土間と式台からなり、次の間は南に明障子、外に縁を付す。取り次ぎの間は襖で仕切り、外側に明障子を立てて縁を回す。取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付けて二階の昇り口とする。
 二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に6畳間、北に置床付き7畳半の間がある。ここが象山が来客と対応した間である。   
 明治以後住人が替わり、原形も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。

平成7年2月10日
長野市教育委員会